KUMANO JOURNAL

編集部・発行元

三重県熊野市須野町13

木花堂


 熊野は紀伊半島南部の総称で、隠国(こもりく)、神々の棲まう奥まったところという意味が由来。時代と共に国名は変わっても、総称して熊野と呼ばれてきました。

 もともと、熊野の「熊」は「隈」が語源で、「隅っこ」とか「辺境の地」、また「神が隠る地」という意味で、華やかな都から見て神々が住まう奥まったところとしてのイメージがあったのではないかと考えられています。 

 そしてとにかく山ばかり。その山がそのまま海に落っこちているような地形で、平地は少ないです。海、山、川の恵みを受ける、よき日本の土地のひとつ。そこにさらに黒潮の暖流(本州で最も接岸)、本州一の降水量の恩恵により、厳しくも優しい自然に対する自然信仰(滝、巨岩、巨木・・・)が息づいています。

 この自然信仰が根底にあり、仏教の伝来とともに起こった神仏習合と、熊野山中で盛んになった山岳宗教(修験道)が融合し、熊野三山を中心とした熊野信仰が形成されていきました。

奥熊野はそのまた奥

 平安時代には、たくさんの皇族たちが都から紀伊路・中辺路を経て熊野三山を目指しました。彼らにとっては、本宮のそのまた奥に広がる神秘的なところが、奥熊野、現在の熊野市や奈良県十津川村一帯のエリアです。

 そこには、日本書紀に記された日本最古の神社といわれる「花の窟」が鎮座しています。(その頃はまだ「神社」と認識されておらず、日本創生の神様・イザナミノミコトの墓所と認識されていた。)・・・古くからこの場所で行われてきた祭には、朝廷から錦の旗が献上されてきたと伝わっており、とても重要な場所とされていたことがうかがえます。

 また、近くには産田神社があり「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」という口伝が伝わっており、実際に江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社で同じ巫女舞が伝承されていたとか。また、熊野本宮大社の例大祭では、奥熊野の方角を向いて「花の窟の歌」が2回謡われることなどから、熊野本宮と奥熊野エリアとの関係の深さがうかがえます。

 「奥熊野」の地名は、江戸時代に現在の熊野市木本町にあった、紀州藩の「奥熊野代官所」にも残っています。(もっと詳しく知りたいかたは、くまどこの東紀州百科事典をどうぞ。)

 かつて三重県熊野市は、「奥熊野」の中心地でした。貴族のものだった熊野巡礼が庶民に広がり、お伊勢参りや西国三十三所巡礼が流行した江戸時代には、「蟻の熊野詣」と形容されるほどに伊勢路が賑わい、熊野市にもその名残がそこかしこに残っています。

 しかし、そのずっと前から、さらには日本書紀の時代以前から、きっと「花の窟」や「大丹倉」など、特別な場所だったのでしょう。仏教伝来とか、日本神道とかの前から在ったもの。アニミズムとか、自然崇拝とか・・・専門家でないのですが、日本中に、世界中に在ったと思うのです。そういう気配が、「奥熊野」には色濃く残っているような気がする、そういう土地です。